2017/6/9

それでも、気ままな旅はやめられない(5)

ムッシュー酒井の ど~もど~も No.45

車での一人旅の不都合は地図を見てくれるナビ役がいないこと。道路標識に注意しながら、ただ頭に描いた地図の方向に向かって走り、どこで食事をしようか、いいホテルが見つかるように、そんなことを考えながら、前方を注視し、たまにちらっと左右の景色を眺めるだけだから、道路標識で気になる町や村を見つけるとつい寄り道をしようかと考えてしまう。結構これで、おもしろいことに出会う確率が高いから、ぶらり旅はやめられない。

高速道路は日本に比べると非常に安い。国道は整備されていて日本の高速道路並みのところも多く、ロータリーが車の流れの整理をするから100キロ以上走っても信号が全くなく、ロータリーで行き先標識を見ればまず道に迷うことがない。シャロレーからマルセイユまでは約380キロあまり。途中アヴィニヨン、アルルに寄っても昼前には着いてしまうと思い、のんびり国道を走ることにした。高速道路のガソリンスタンドやパーキングエリアには売店があるが、高速道路並みの国道では途中買い物ができないので、たまに県道に下りてカフェでコーヒーか、眠気さましの1杯(ワインは許されている)と、のんびり旅。

マルセイユはご存知フランスを代表する港町。旧港に代表される地域はブイヤベースを食べさせてくれるレストランが並び、早朝から小舟が歩道を歩く人々相手に釣ってきたばかりの魚を賑やかな呼び声で売り、丘の上のノートルダム寺院、沖合にはデュマの小説「巌窟王」のモデルになった、シャトー・イフ城を巡る遊覧船の船着き場と観光にはこと欠かない街ではあるが、どうも最近は治安が悪く評判が悪い。ギャングの抗争事件が頻繁に起こり、バスには安心して乗れない。ひったくり事件も頻発し「マルセイユの罠」というキャッシュカードの詐欺事件はここから始まったとネットには記されていて、日本総領事館のHPにも、レンタカーの車上荒らし、置き引き、睡眠薬を飲ませる事件が昼間から発生しており、催涙スプレーをかけられるなどなど、不安を煽ることばかりが書かれている。

ちなみに「マルセイユの罠」とは、旅行者がキャッシュコーナーで現金を引き出そうとカードを入れるとATMが反応しない。あらかじめ針金か何かでカードが引っかかるようにしておき、観光客が困惑していると、後ろに並んでいた人間が親切そうに、もう一度暗証番号を押せばちゃんど動きますよとアドバイスする。観光客は言われた通りにしてみるが機械は動かない。途方にくれた観光客がその場を離れると男は手早くカード差込口から針金とカードを取り出す。そして再度カードを差し込み、観光客が打ち込んだ暗証番号を(見ていたのだ)打ち込み、現金を引き出しその場を離れる。このような簡単な手口が「マルセイユの罠」として流行ったという。そんなニュースばかりで、すでに10数回は訪れているマルセイユがだいぶ悪く描かれており、不安はないが慣れには注意が必要。

フランス人の移民に対する寛容な精神。日照時間は年間パリよりも1200時間も多く、対岸、地中海の向こう側はアフリカ大陸。しかもマグレブ諸国(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)は100年近くフランスの植民地であったため、フランス語を彼の地で覚えた人も多く、マルセイユの人口の60%超が引き寄せられた移民である事実が、その現状の一因なのかも知れない。

のんびり走ってきたが、昼過ぎにはマルセイユ旧港に着いてしまった。港の左右、正面はホテルやレストランが並び、歩道上には多くの土産物屋、港には無数のヨットが係留されており、南側の高い丘にノートルダム寺院がそびえている。商店やレストランは改装され新しいが、港の景色は40数年前からほとんど変わらない佇まい。相変わらずの観光客と少し新しくなった遊覧船。昔と違った風景の一つが、パリのルーブル美術館やエッフェル塔で観光客相手の犯罪者(?)取り締まりのポリスは自転車(日本の警察の自転車よりはぐっとスポーティー)だが、ここマルセイユのポリスはセグウエイ(電動立乗り車?)でパトロールしている。セグウエイで犯罪者を追いかけられるのか疑問だがその数結構多く、なんだか楽しそうに警備しているように見える。

私の車はレンタカーナンバー。車上荒らしに遭わないように、できるだけ人目の多いところに車を止め早速のレストラン探し。と言っても何度も来ているとどうしてもお気に入りのレストランに偏ってしまうし、食べるものは決まっている。生牡蠣と地中海のヴィオレット、そしてとびきり新鮮なラングスティンとオマールエビ入りのブイヤベース、そしてロゼワインだ。

酒井 一之
酒井 一之

さかい・かずゆき
法政大学在学中に「パレスホテル」入社。1966年渡欧。パリの「ホテル・ムーリス」などを経て、ヨーロッパ最大級の「ホテル・メリディアン・パリ」在勤中には、外国人として異例の副料理長にまで昇りつめ、フランスで勇名を馳せた。80年に帰国後は、渋谷のレストラン「ヴァンセーヌ」から99年には「ビストロ・パラザ」を開店。日本のフランス料理を牽引して大きく飛躍させた。著書多数。


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